「ハリー・ポッター」シリーズでハーマイオニー役を演じたエマ・ワトソンと、原作者J・K・ローリングの関係が冷え込んでいる。10歳の頃から親子のような絆で結ばれていた二人に、いったい何が起きたのだろうか。
この確執の背景には、トランスジェンダーをめぐる価値観の違いがある。エマ・ワトソンはフェミニストとして知られ、UN Women親善大使を務めるなど、包摂的な社会の実現に力を注いできた。一方、ローリングはフェミニストでありながら、トランスジェンダー女性と生物学的女性の区別を主張し、激しい論争を巻き起こしている。
JKローリングのトランス発言が物議を醸した理由
2019年頃から、JKローリングのトランス発言が次々と炎上するようになった。きっかけは「生理のある人」という表現に対して「それは”女性”という言葉じゃないの?」とツイートしたことだった。さらに、トランス女性と生物学的女性の違いを強調する発言を重ね、「TERF(トランス排除的ラディカル・フェミニスト)」として批判されるようになる。
ローリング本人は、これを「女性の権利を守るため」の発言だと説明している。彼女自身が若い頃に性被害や家庭内暴力を経験しており、女性専用スペースの必要性を切実に感じていたのだ。ホームレスシェルターや性暴力被害者支援センターなど、女性が安心できる場所をどう守るか。彼女にとって、これは単なる政治的主張ではなく、自分の痛みから生まれた問いだった。
しかし、このJKローリングのトランス差別とも受け取られる発言は、世界中で賛否を二分する大論争へと発展していく。
エマ・ワトソンとハリー・ポッターキャストの選択
エマ・ワトソンは、ハリー・ポッター映画で共に育ったダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリントとともに、トランスジェンダーを支持する立場を明確にした。ダニエルは「トランス女性は女性です」とシンプルな声明を発表し、エマもSNSで「トランスの人々はそのままで愛されている」と繰り返し表明。
特に問題視されたのが、ある授賞式でのエマのスピーチだ。司会者が「ただし一人を除いては」とローリングを茶化すような紹介をし、エマはそれを否定せず「すべての魔女たちのためにここにいる」と発言した。しかし、この場面が「ローリングを公に批判した」と受け取られ、溝を深める決定的な瞬間となってしまったのだ。
エマ・ワトソンはUN Women親善大使として、包摂的なフェミニストとしての活動を続けてきた。HeForSheキャンペーンを推進し、ジェンダー平等を訴えてきた彼女にとって、トランスジェンダーの権利を支持することは、自分の信念に沿った自然な選択だったのだろう。
ローリングが沈黙を破った理由
2024年、ローリングは長い沈黙を破り、エマ・ワトソンに対して長文の声明を発表した。きっかけは、エマがポッドキャストで「私は彼女を愛せるし、彼女が私を愛してくれていたと知ることもできる」と語ったことだった。
ローリングの反論は率直で、ときに厳しいものだった。
「富と名声に守られて大人になった人々と同様に、エマは現実の生活を知らない。彼女は、自分がどれほど無知であるかを理解していないのだ」
ローリングは、エマが経験していないであろう現実を列挙。ホームレスシェルター、男女混合の病棟、公営プールの更衣室、女性を自称する男性レイピストと刑務所の部屋をシェアすること——。そして、こう続けた。
「私は14歳で億万長者だったわけではない。エマを有名にした本を書いていた頃、私は貧困の中にいた」
ローリングにとって、エマの批判は「火にガソリンを注いだようなもの」だった。彼女は当時、殺害予告や性的暴力を示唆する脅迫にさらされていた。そんな中、かつて10歳の頃から知る「子どもたち」が距離を置く発言をしたことは、深い傷となったのだ。
JKローリング海外の反応と日本の受け止め方
興味深いのは、この問題に対する日本と海外の反応が大きく異なることだ。
日本のSNSでは、ローリングを支持する声が圧倒的に多い。「トランス女性が女性のスペースに入ること」や「スポーツでの不公平」に対する懸念から、女性の権利を守る論調が優勢なのだ。また、「公の場で政治的発言をしないことが美徳」という日本特有の文化も影響している。そのため、エマが授賞式で立場を表明したことが、必要以上に「ローリング批判」として受け止められやすい。
一方、欧米では状況が異なる。英語圏のエンタメ業界では、社会問題について意見を明らかにすることがトップスターに求められる。「言及しない=無関心」と受け止められる文化があるため、エマやダニエルのようなスターは、立場をはっきりさせざるを得なかったのだ。
JKローリングの海外の反応を見ると、「フェミニスト vs トランス支持派」という構図が色濃く、議論は依然として二分されている。ただし、近年は女性の権利の観点からローリングに共感する声も増えており、単純な「善悪」では割り切れない複雑さがある。
まとめ|エマ・ワトソンとJKローリングの問題
この確執を「陰湿ないじめ」や「裏切り」として語る論調も見かける。しかし実際には、俳優たちは原作者を直接的に叩いたわけではない。彼らがしたのは「政治的立場の表明」であり、それは欧米の文化においては当然の行為だった。
もちろん、ローリングが脅迫にさらされて恐慌状態にあったときに、もっと配慮できたのではないかという指摘はある。恩人への配慮が足りなかったという意見も理解できる。だが、それを「徹底的な批判」や「確信犯的な攻撃」とまで言い切るのは、事実の歪曲だろう。
エマは最近のポッドキャストで、こう語っている。
「私が一番腹立たしく思っているのは、彼女との対話が実現しなかったこと」
エマ・ワトソンとハリー・ポッターシリーズの関係は、彼女のアイデンティティの一部だ。ローリングから受けた優しさと励ましを忘れたわけではない。それでも、自分の信念を曲げることはできなかった。
ローリングもまた、エマたちを守りたい気持ちと、自分の信念を貫く意志の間で揺れていた。彼女は声明でこう書いている。
「彼らを10歳の頃から知っているからこそ、守りたい気持ちはある」
この確執は、善と悪の単純な構図ではない。それぞれの立場、それぞれの痛み、それぞれの信念から生じた、悲しいすれ違いなのだ。文化的背景の違いや、世代間・階級間の価値観のずれも影響している。
私たちに投げかけられた問い
ハリー・ポッターという物語は、「愛すること」と「正しいこと」の複雑さを描いてきた。ダンブルドアは言った。「選択こそが、その人が何者であるかを示す」と。
エマ・ワトソンとJ・K・ローリングは、それぞれに正しいと信じる道を選んだ。その選択が二人を引き裂いたことは、あまりにも皮肉だ。
でも、だからこそ私たちはこの問いに向き合う必要がある。異なる信念を持つ人を愛することはできるのか。対話が成立しないとき、私たちはどうすればいいのか。
答えは簡単には出ない。ただ一つ言えるのは、どちらか一方を悪者にして片付けることでは、何も解決しないということだ。
ハリー・ポッターの物語が教えてくれたように、世界は白と黒だけでできているわけではない。グレーゾーンの中で、私たちは自分の選択と向き合い続けなければならない。
エマとローリングの確執は、まだ終わっていない。でも、この二人の物語から学べることは、きっとまだある。



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